山梨岡神社は、山梨県山梨市にある歴史ある神社で、式内社に分類される旧郷社です。「山梨岡神社」として古くから地域に根付き、崇敬されています。
この神社の鎮座地は「石森山」とも「石森丘」とも呼ばれ、周囲は平地の中にそびえる小高い丘で、古くから松の木や奇岩、怪石が立ち並び、躑躅(つつじ)の名所として知られています。また、古代から文人墨客に愛され、境内の岩にはそれぞれ風情ある名称が付けられています。
地元には、「山梨」という名称が、もともと「山無し」と呼ばれていたのを誤って「山梨」としたという俗説もありますが、確かな起源は明らかにされていません。
また、1814年の『甲斐国志』には、当時の社名が「熊野権現」として記載されていることが確認されています。
山梨岡神社には以下の6柱の神々が祀られています:
1787年の『甲斐名勝志』および『甲斐国志』には、熊野権現として伊弉冉尊以下の3柱が、国立明神として国常立尊以下の3柱が祀られているとの記載があります。このように熊野権現信仰と国立明神信仰が併せて行われていることがわかります。
社伝によれば、創祀年代は不明ですが、日本武尊が東夷征伐の折に勧請したと伝えられており、ある説では景行天皇41年(111年)に日本武尊が創祀したとされています。
本殿の東側には、日本武尊が腰を掛けたと伝えられる「御腰掛石」があります。
768年(神護景雲2年)には、坂上苅田丸が社殿を造営し、その後もたびたび武将による修造が行われたと伝えられています。1187年(文治3年)には、加賀美遠光も修造を行い、かつては毎年「弓祭り」という神事が執り行われていました。
江戸時代には、山梨岡神社には朱印地2石5斗余り、黒印地3石7斗余りの土地が与えられていました。また、1873年(明治6年)には郷社に列せられています。
本殿は二間社流造の二座相殿で、銅板葺きの屋根を備えています。正面には擬宝珠高欄付きの縁があり、側面には脇障子を配置するなど、細部に桃山時代の技法が見られる装飾が施されています。
身舎には、懸魚(げぎょ)や板蟇股(いたかえるまた)が飾られており、斗拱(ときょう)には拳鼻(こぶしばな)付きの出組が見られます。向拝(こうはい)は1間の広さで、海老虹梁(えびこうりょう)によって身舎とつながれています。
山梨岡神社の本殿は、1960年(昭和35年)11月7日に山梨県の有形文化財に指定されました。さらに、1961年(昭和36年)に行われた解体修理の際、大斗(だいと)の裏側に元禄16年(1703年)に修理が行われたことを示す墨書が発見されました。この墨書により、現在の本殿は元禄時代の造替にかかるものであることが判明しました。
境内には、日本武尊を祀る天神社があり、「御腰掛石」の上に鎮座しています。日本武尊の霊を祭るこの神社は、山梨岡神社の一部としての重要な位置を占めています。
山梨岡神社の境内には、天神社を含む10の末社があり、地域の信仰を支える存在となっています。
山梨岡神社の本殿は、桃山時代の装飾技法を残す貴重な建築物であり、山梨県指定の有形文化財として歴史的価値が認められています。その建築様式や装飾は、当時の神社建築の技法を現代に伝える重要な遺産です。
元禄16年の修理を示す墨書が発見されたことで、この本殿が建立当初のものではなく、元禄時代に再建されたものであることが判明しました。時代背景と技法を今に伝える重要な遺構であり、山梨岡神社の文化財としての価値を高める要因となっています。
山梨岡神社は、山梨市の中心から程近く、訪れやすい立地にあります。周辺の自然環境や松の大木、奇岩、怪石などの風景は美しく、特に春には躑躅が咲き誇り、見ごたえのある景観を楽しむことができます。また、境内には日本武尊ゆかりの御腰掛石や趣のある岩々が点在し、歴史と自然が織りなす独特の雰囲気を感じられるでしょう。