永昌院は、山梨県山梨市に位置する曹洞宗の寺院です。甲斐守護職である武田信昌が開基となり、長い歴史を持つ寺院として知られています。
永昌院は、山梨市の西方約3kmの甲府盆地を見下ろす標高480mの山の中腹にあります。近くのJR山梨市駅からもアクセス可能な場所に位置し、豊かな自然に囲まれた静かな環境に佇んでいます。
永昌院の前身は真言宗の寺院とされ、1504年(永正元年)に甲斐守護職である武田信昌が一華文英を開山に迎え、曹洞宗の寺院として創建しました。永昌院の初代住職となった一華文英は、中山広厳院(現笛吹市一宮町)を開山した雲岫宗竜の高弟でもありました。信昌が創設したこの寺院は、以後も曹洞宗の法灯を受け継ぎながら繁栄を続け、江戸中期には常恒会地に昇格し、十数棟の伽藍を有するまでに至りました。
1909年(明治42年)の火災により、総門、鐘楼、経蔵の3棟を除くほとんどの建造物が焼失しました。しかし、貴重な寺宝である仏像、過去帳、古文書(永昌院文書)などは焼失を免れ、現在も大切に保管されています。
永昌院には、開基である武田信昌の位牌が安置されており、境内には信昌の墓所も存在します。信昌の法名は「永昌院殿傑山勝公大禅定門」で、その名が刻まれた宝篋印塔や五輪塔が寺内にあります。
永昌院は、山梨県指定の有形文化財をいくつか所有しています。ここでは代表的な文化財を紹介します。
この画像は1514年(永正11年)頃に描かれた永昌院の開山禅師・一華文英の肖像画です。この作品は弟子である二世住職・菊隠によって描かれ、禅宗僧侶の肖像画として「頂相(ちんそう)」と呼ばれるもののひとつです。
永昌院にある銅鐘は「甲斐五鐘」のひとつとされています。1376年(永和2年)に藤原昌栄によって鋳造され、最初は現北杜市の大林寺に納められました。その後、1402年に甲府の東光寺へ、1504年には永昌院に移されました。戦国時代には武田勝頼が遠州での戦陣に使用しましたが、元和年間(1620年頃)には再び永昌院へ戻ってきました。
永昌院が位置する矢坪地区には「矢坪の一つ火」という不思議な伝承が残されています。夜になると永昌院の裏山に火の玉が見え隠れし、村の人々はその謎を解明しようとしましたが原因は分からず、火の玉は夜な夜な現れるのでした。
永昌院には、かつて伝海禅法院という僧侶がいました。彼は裏山の見回りをし、ちょうちんと鈴を携えて夜に山を巡るのが日課でした。しかしある夜、彼は見回りに出たまま戻ることがなく、村人たちは必死に山を探しましたが、彼の姿を見つけることはできませんでした。
村人たちは伝海禅法院を供養するために彼の姿を木像として本堂に安置しました。すると、不思議なことに雨の日になると必ず木像の杖に泥が付着しており、村人たちは「今でも伝海禅法院が見回りを続けてくれているのだ」と信じるようになりました。
以降も永昌院の裏山には夜ごとに一つ火が現れ、矢坪の人々はこの火を伝海禅法院が裏山を見回り、村を守ってくれている合図だと信じるようになりました。現在もこの伝承は語り継がれ、永昌院の墓地には伝海禅法院の供養塔が建てられています。
永昌院の所在地は、山梨県山梨市矢坪(やつぼ)1088番地です。歴史あるこの寺院は、山梨市の静かな山中に佇み、訪れる人々に癒しと敬虔な空間を提供しています。
永昌院へのアクセス方法としては、最寄りのJR山梨市駅から徒歩やタクシーの利用が便利です。また、甲府盆地を一望できる景観の良さも永昌院の魅力のひとつです。