放光寺は山梨県甲州市塩山藤木に位置する歴史ある寺院です。山号は「高橋山」で、真言宗智山派に属しています。本尊は金剛界大日如来であり、数々の文化財や歴史的背景を持つ魅力的なスポットです。また、周防正行監督の映画『ファンシイダンス』のロケ地としても知られ、多くの観光客に親しまれています。
放光寺の前身は『甲斐国志』によると、平安時代に大菩薩山麓の一ノ瀬高橋に建立された天台宗寺院「高橋山 多聞院 法光寺」です。平安後期には、甲斐源氏の一族・安田義定(遠江守)が藤木郷に移転し、自身の菩提寺としました。創建当初の開山は賀賢上人です。
戦国時代には武田信玄が放光寺を保護し、戦勝祈願を行うなど重要な役割を果たしました。しかし、1582年の織田・徳川連合軍の侵攻による焼失を経て、徳川家康の庇護を受け復興しています。
江戸時代には幕府の支援を受け、作事奉行保田宗雪の指揮で本堂が再建されました。徳川家光から朱印地を賜り、地域の信仰拠点として発展しました。
放光寺の本堂は江戸中期の建築様式を今に伝える貴重な遺構です。方丈形式を採用し、来迎柱や須弥壇、安田氏家紋「追洲流」の装飾など、歴史的価値の高い建築要素が随所に見られます。
南側の広縁や東西の入側、襖や障子などの建具も当初のものがよく保存されており、当時の生活文化や信仰の姿を垣間見ることができます。
放光寺は映画『ファンシイダンス』のロケ地となり、多くの人々にその魅力が知られるきっかけとなりました。寺院の持つ厳粛さと映画の持つユニークさの融合が、多くのファンを惹きつけています。
放光寺には、国指定の重要文化財をはじめ、山梨県や甲州市指定の文化財が多く残されています。それらは平安時代から鎌倉時代、そして江戸時代にかけての歴史的背景を示し、訪れる人々に深い感動を与えます。
本堂は、天正10年(1582年)に織田信長の兵火で焼失した後、元禄年間(1688~1704年)に再建されたものです。桁行9間、梁間6間の規模を誇り、一重入母屋造の禅宗様式が特徴です。内部は6室に区切られ、南面には広縁、東西両側には入側が設けられています。本堂内の装飾や建具には、安田氏の家紋「追洲流」が施され、当初の建築資材が多く残されています。
本尊である木造大日如来坐像は、平安時代末期の円派による作とされます。金剛界大日如来を表し、像高は95.4センチメートル。右足を上にして結跏趺坐し、智拳印を結ぶ姿が印象的です。この像は、宝物殿に安置され、平安時代の仏教彫刻の優れた例として評価されています。
平安時代後期の不動明王像で、十九観様の形式を持つ貴重な仏像です。像高は148.4センチメートルで、彩色や彫刻技法に平安末期の特色が見られます。この像も宝物殿で保管されています。
愛染明王坐像は平安時代の作で、檜材の寄木造に彩色が施されています。像高は89.4センチメートルで、弓矢を天に向ける「天弓愛染」の形式を持ちます。この形式は、愛染明王の信仰が盛んになった平安後期の仏教美術を代表するものです。
鎌倉時代の金剛力士像で、阿形像と吽形像の2体が仁王門に安置されています。像高はそれぞれ263センチメートルと264センチメートルで、筋肉の表現や動きのある姿勢が特徴です。これらの像は、仏師・成朝による作とされています。
放光寺の銅鐘は鎌倉時代に鋳造されたもので、高さ105センチメートル、口径56センチメートルを誇ります。銘文には、建久2年(1191年)に安田義定が寄進したことが記されており、後の時代に何度か改鋳されています。
589巻にも及ぶ大般若経は、南北朝から室町時代にかけて筆写されたものです。この経典は文明15年(1483年)に修補され、戦国時代に放光寺へ移されました。その量と保存状態の良さが特徴です。
毘沙門堂に安置されるこの像は、平安後期から鎌倉時代の作とされています。像高は147.8センチメートルで、甲冑姿が特徴です。色鮮やかな彩色が施され、当時の技術と美意識が伺えます。
放光寺は自然に囲まれた静寂な環境にあり、参拝者は心を落ち着けながら歴史や文化を感じることができます。春には桜、秋には紅葉が美しく、四季折々の景色も楽しめます。
放光寺の宝物殿では、本尊をはじめとする数々の文化財が公開されています。これらの仏像や寺宝を間近で鑑賞することで、歴史や仏教美術への理解を深めることができます。
放光寺は甲州市塩山藤木に位置し、公共交通機関や車でのアクセスが便利です。周辺には他の観光スポットも多く、観光ルートの一部として訪れるのもおすすめです。
放光寺は、長い歴史と多くの文化財を有する魅力的な寺院です。静寂な環境の中で歴史を学び、心を癒すひとときを過ごしてみてはいかがでしょうか。映画のロケ地としての側面も含め、多くの魅力が詰まったこの寺院をぜひ訪れてみてください。