山梨県甲府市にあった躑躅ヶ崎館は、甲斐国守護武田氏の居館として築かれた戦国期の居館で、現在は武田神社が建つ場所です。「武田氏館跡」として国の史跡に指定されており、甲州市の勝沼氏館と並ぶ資料価値の高い中世の城館跡として知られています。
躑躅ヶ崎館は、甲府市の北端に位置し、相川扇状地上に築かれました。この地は、武田信虎によって相川扇状地への移転が決まり、以後、甲斐国の守護所が置かれました。周囲には茶邸や毘沙門天堂、見張り櫓などが配置され、信玄時代には武田氏の本拠地として甲斐源氏武田氏が拠点とした城下町が発展していきました。
武田氏の居館である躑躅ヶ崎館が甲斐国の中心地となる以前、守護所は八代や千野といった場所に置かれましたが、南北朝時代には石和から離れた千野や八代へ移転されました。15世紀初頭から中頃にかけて甲斐国内は守護の不在が続き、各地の豪族や守護代が台頭して乱国状態に陥っていました。
戦国大名として甲斐統一を進めた武田信虎は、川田館から甲府の相川扇状地への移転を計画し、1519年に躑躅ヶ崎館を新築しました。移転の理由には、水害の常襲地であったことなどが挙げられます。信虎は武田家家臣団を甲府へ集住させるなど都市の整備を進め、甲府の基盤を築きました。
躑躅ヶ崎館の設計には、京都の条坊の影響が見られ、方形の居館として建設されました。発掘調査の結果によると、当初の館は室町時代の将軍邸「花の御所」と類似しており、建物配置や名称にも京都の影響が伺えます。
武田信玄の代には、甲斐源氏武田氏の勢力が信濃、駿河、上野、遠江、三河に拡大し、居館も広く整備されました。1543年には火災が発生し、館の一部が焼失するも再建が進められました。以後、信玄の時代には甲斐の本拠地として躑躅ヶ崎館が機能し続けました。
1543年には、武田道鑑の屋敷からの出火によって躑躅ヶ崎館が一部焼失しましたが、信玄は一時的に駒井高白斎の屋敷に避難しつつも迅速に館に戻り、大規模な改修を実施しました。火災の被害を契機に、館の防火対策も含めた建物改修が行われたと考えられています。
1575年の長篠の戦いに敗北した武田家は、甲府から韮崎の新府城へ移転を計画しました。しかし、勝頼が新府城への移転を実行するまでに家臣団の反対もあり、最終的には天正10年(1582年)に甲州征伐によって武田家が滅亡することとなりました。
武田氏滅亡後、織田家臣の河尻秀隆が甲斐を治め、躑躅ヶ崎館も再利用されましたが、その後の時代とともに館は廃れていきました。今日では武田神社が建立され、躑躅ヶ崎館の跡地が国の史跡として整備されており、当時の面影を伝えています。
躑躅ヶ崎館跡には現在、武田神社が建立されており、多くの観光客が訪れます。武田神社は武田信玄を祀る神社で、広大な敷地には参拝のほか、歴史資料館や社殿など見どころが豊富です。また、神橋と呼ばれる堀に架けられた橋は、美しい景観を楽しむことができます。
大正7年に発刊された『甲府略志』に収録されている「古府の図」は、甲府の歴史を知る貴重な資料です。武田氏の居館や城下町の様子を描いたこの地図は、当時の甲府の都市構造や館の規模を知る手がかりとなります。
武田神社の周辺には、躑躅ヶ崎館跡以外にも多くの観光スポットが点在しています。特に、春には桜の名所として多くの観光客が訪れ、紅葉の季節にも美しい風景が広がります。また、武田神社を起点に山梨の歴史を感じられる観光ルートも整備されており、歴史ファンには見逃せない場所となっています。
躑躅ヶ崎館は戦国時代の武田氏の拠点として、甲斐国の中心的な役割を果たしました。歴史的な背景を理解しながら訪れることで、当時の甲府の姿を思い浮かべることができるでしょう。武田神社や周辺の観光スポットを通じて、戦国時代の歴史と甲府の成り立ちに触れる旅を楽しんでください。