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信立寺

(しんりゅうじ)

信立寺は、山梨県甲府市若松町に位置する日蓮宗の寺院です。山号は「広教山」、本尊は「十界曼荼羅」であり、旧本山は身延山久遠寺です。潮師法縁に属しており、遠光寺や法華寺と並び「甲府法華三ヵ寺」の一つに数えられます。

寺院の概要

信立寺は甲府市の中心部に位置し、周辺には歴史的な街並みや観光名所が点在しています。甲府の歴史ある法華寺院として、長年にわたって地域と深いつながりを持っています。以下、信立寺の立地や歴史について詳しくご紹介します。

信立寺の立地と歴史的景観

信立寺は甲府市域の中心部にあり、遊亀通りの東側に位置しています。創建当初は、甲斐国守護・武田氏の居館であった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の近くにあり、武田城下町の中心的な場所に建てられました。その後、江戸時代には甲府城の築城に伴い、現在の若松町に移転し、甲府城下町の南端に位置するようになりました。移転後には「信立寺地内町」と呼ばれる町が形成され、信立寺を中心とした歴史的な景観が広がっていました。

信立寺の歴史

信立寺は戦国時代の大永2年(1522年)に、甲斐国主である武田信虎によって創建されました。当初、甲府の穴山小路に寺領を寄進され、信虎の病気平癒を祈願する場として機能しました。信虎は、病気の回復を機に法華経を信仰するようになり、身延山久遠寺13世の日伝上人を開祖として信立寺を建立しました。この寺院は、身延山久遠寺の分院としての役割を持ち、信仰の中心地の一つとして発展しました。

釈迦如来像の由来

信立寺には、釈迦如来像が安置されています。この像は信虎が甲斐国の泉から発見されたものであり、『甲斐国志』によれば、日蓮が開眼したと伝えられています。信虎はこの釈迦像に病気平癒を祈願し、その後の回復を受けて信仰の対象としました。この像は信立寺の象徴的な存在であり、現在でも多くの参拝者により信仰されています。

武田信玄との関わり

『甲陽軍鑑』には、信立寺や甲府の妙音寺に関する記述が見られます。武田信玄に関する逸話として、信玄が紅梅の枝を折ることを禁止した話や、信立寺に関する裁判事例が紹介されています。また、戦国時代には信立寺は「真(新)立寺」と称されていましたが、徳川時代に入り、信虎の名にちなんで「信立寺」と改称されました。

江戸時代以降の発展

江戸時代に入ると、信立寺は甲府城の築城に伴い現在地に移転されました。また、この時期には「信立寺町」として寺内町が形成され、寺の周辺には多くの商人や住民が住み着き、信立寺を中心とした地域社会が築かれました。さらに、信立寺は身延山久遠寺法主の宿寺としても機能し、法主が滞在するための上段の間も設けられていました。

明治時代以降の歴史

信立寺の45世住職であった塩田義遜(1889年 - 1964年)は、日蓮宗の学僧であり、郷土研究家でもありました。彼は甲斐国の歴史や仏教に関する多くの研究を行い、著書『法華経学史の研究』などを執筆しました。彼の活動により、信立寺は地域の文化と歴史を守る役割も果たしてきました。

戦後の復興

1945年の甲府空襲により、信立寺の建物や古文書は大部分が焼失しましたが、秘仏である釈迦如来像は奇跡的に残りました。この像は現在でも信立寺のシンボルとして、病気平癒の信仰を集める存在となっています。

信立寺の宗教的意義と信仰

信立寺は日蓮宗の寺院であり、法華経に基づく信仰を中心にしてきました。創建当初から、病気平癒や開運を祈願する場として、地域住民や信仰者から深い尊崇を受けています。また、信立寺は身延山久遠寺の分院として、その宗教的役割を果たし続けています。

病気平癒の秘仏

信立寺に安置されている釈迦如来像は、「病気平癒の秘仏」として知られています。これは、武田信虎が病気平癒を祈願し、その霊験により信仰を深めたことに由来しています。この像に対する信仰は現在でも受け継がれており、訪れる参拝者の多くが病気平癒を願って祈りを捧げています。

昭和期の宗教改革と旧末寺

信立寺は、昭和16年に行われた日蓮宗の宗教改革により本末制度が解体され、現在では独立した寺院となっています。しかし、かつての旧本山や旧末寺との関係は続いており、地域の他の日蓮宗寺院とのつながりを大切にしています。

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名称
信立寺
(しんりゅうじ)

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