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甲斐善光寺

(かいぜんこうじ)

甲斐善光寺は、山梨県甲府市善光寺にある浄土宗の寺院です。正式名称は「定額山浄智院善光寺」(じょうがくざんじょうちいんぜんこうじ)ですが、他の善光寺と区別するために「甲斐善光寺」や「甲州善光寺」「甲府善光寺」とも呼ばれます。

歴史的な仏教寺院で、数多くの貴重な文化財を所蔵しています。特に本堂や山門はその壮麗さから、多くの観光客が訪れるスポットとなっています。本堂や山門は重要文化財に指定されており、歴史的な価値が非常に高い建造物です。

寺の概要

甲斐善光寺は、戦国時代に甲斐の領主であった武田信玄が建立した寺院です。現在の甲府市善光寺周辺に位置し、信濃国(現在の長野県)にある善光寺との関わりが深く、歴史的・文化的価値のある寺院として広く知られています。

立地と地理的背景

甲斐善光寺が所在する甲府市善光寺は、甲府盆地の北縁に位置しています。周囲には板垣山、大笠山、愛宕山があり、小河川の高倉川も流れています。この地域には縄文時代の遺跡や、古墳時代の横穴式石室を持つ古墳が点在し、歴史的に豊かな地理的背景を持っています。

周辺の歴史的景観

甲府盆地北縁地域には、平安時代から中世にかけての遺跡も点在しています。特に、酒折宮や東光寺など、古代・中世の寺社が周辺に存在しており、甲斐善光寺はこの歴史的な背景の中で発展してきました。

甲斐善光寺の創建と展開

第三次川中島の戦いと信濃善光寺

甲斐善光寺は永禄元年(1558年)、甲斐の戦国大名であった武田信玄によって創建されました。創建の契機となったのは、信濃国にあった善光寺が戦火に巻き込まれたことで、信玄がその仏像や寺宝を保護するために甲斐へ移転させたことです。

武田信玄と信濃善光寺の関係

武田信玄の父、信虎も信濃善光寺に度々参拝しており、信濃との関係が深かったことが窺えます。信玄は信濃国の北部に勢力を伸ばし、越後の上杉謙信と川中島で激しい戦いを繰り広げました。特に、第二次川中島の戦いでは信濃善光寺が戦火を被り、この出来事が甲斐善光寺創建のきっかけとなりました。

善光寺如来像の移転と甲斐善光寺の建立

信玄は戦火を避けるため、信濃善光寺の本尊である善光寺如来像を甲府へ移転しました。このようにして、甲斐に新たな寺院「甲斐善光寺」が建立され、善光寺如来像が仮堂に安置されました。8年後の永禄8年(1565年)に本堂が完成し、如来像が正式に安置されました。

伽藍

本堂(通称:金堂)

甲斐善光寺の本堂は「金堂」とも呼ばれ、信濃善光寺のものと同規模で壮大な建築です。以下に、本堂に関する特徴と歴史について詳述します。

再建の歴史

最初の本堂は永禄8年(1565年)に完成し、桁行約50メートル、梁間約22メートル、高さ約23メートルと、非常に大きな規模を誇りました。しかし、宝暦4年(1754年)2月の火災により焼失。その後、寛政8年(1796年)に再建されました。再建には明和3年(1766年)から約30年の歳月がかかり、「善光寺普請」という言葉が工事の遅延を意味するようになったと伝えられています。

現在の本堂の特徴

再建された本堂は、桁行約38メートル、梁間約23メートル、高さ26メートルと、以前よりはやや小さいものの、東日本でも最大級の木造建築物とされています。本堂の建築様式は、善光寺特有の「撞木造」で、独自の美しさを誇ります。

鳴き龍

本堂の中陣天井には、巨大な2頭の龍が描かれています。廊下部分は吊り天井になっており、手を叩くと多重反射による共鳴が生じ、「日本一の鳴き龍」として知られています。訪れる人々にとって、鳴き龍の音響効果は圧巻の体験です。

お戒壇廻り

本堂の下には「お戒壇廻り」と呼ばれる空間があり、「心」の字をかたどった暗闇の中で鍵を触ることで、御本尊様と縁を結ぶとされています。この体験は、参拝者にとって非常に神秘的で心深まる瞬間です。

山門

甲斐善光寺の山門も本堂と同様に重要文化財に指定されています。以下は山門の特徴です。

再建と特徴

山門は本堂とともに一度焼失しましたが、その後再建され、現在の山門は桁行約17メートル、梁間約7メートル、棟高約15メートルと、威風堂々とした存在感を放っています。山門の両脇には未完成の金剛力士(仁王)像が祀られています。

文化財

本尊

甲斐善光寺の現在の本尊は銅造阿弥陀三尊像で、もともとは前立像でしたが、信濃善光寺の本尊が戻された際に新たに本尊とされました。この像は秘仏で、1973年(昭和48年)6月6日に重要文化財に指定されました。現在では7年ごとに開帳され、多くの参拝者が訪れます。

銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像

この本尊は善光寺式阿弥陀三尊像として、鎌倉時代から南北朝時代にかけて盛んに造られた形式を踏襲しています。特に中尊像の左腕の形状が他の善光寺式像と異なる点が特徴で、平安時代後期の特徴を残しているとも評されています。

その他の重要文化財

木造阿弥陀如来及び両脇侍像

12世紀に作られたこの木造阿弥陀三尊像は、甲斐善光寺が所有する重要な文化財の一つです。この像は宝物館に展示されており、その精巧な作りは見る者を魅了します。

山梨県指定有形文化財

木造源頼朝坐像

信濃善光寺の大檀那でもあった源頼朝の木像です。像高は95.8センチメートルで、彩色された姿がそのまま残されています。像の内部には、文保3年(1319年)の銘文が記されており、この像が頼朝の命日を示す最古のものとされています。

絹本著色浄土曼荼羅図

鎌倉時代に制作された一幅で、浄土の世界を色鮮やかに表現しています。観る者に浄土への憧れを抱かせると同時に、その緻密な描写が文化財としての価値を高めています。

絹本著色善光寺如来絵伝

室町時代後半に制作された二幅の絵伝です。徳川忠長による補修が行われた記録が残されており、信濃から移された善光寺縁起を描いています。絵巻物のスタイルで、20場面にわたり物語が展開され、壮大な歴史の一端を感じさせます。

銅鐘

正和2年(1313年)に鋳造された銅鐘は、甲斐善光寺の境内に存在します。その深い音色は古来より響き渡り、参拝者の心を打つとされています。

甲斐善光寺の宝物館

甲斐善光寺の境内には、1982年(昭和57年)に設立された宝物館があり、多数の文化財を展示しています。宝物館内では、貴重な仏像や絵画、その他の美術工芸品を間近で鑑賞でき、その歴史的・文化的な価値を堪能することができます。

近世・近代の甲斐善光寺

織田信長の武田征伐と甲斐善光寺

天正10年(1582年)、織田信長が武田氏を攻め滅ぼしました。この戦いにより、武田信玄の息子である武田勝頼が滅亡し、甲斐善光寺も戦乱に巻き込まれました。この際、善光寺如来は織田家によって一時的に美濃国へ移されました。

如来像の帰還と徳川家康の支援

その後、本能寺の変で織田信長が討たれると、善光寺如来は尾張国を経て、徳川家康によって甲斐善光寺に戻されました。江戸時代には、甲斐善光寺は徳川家の庇護を受けて発展し、信仰の場として栄えました。

甲斐善光寺の現在の姿

観光と文化財保護

甲斐善光寺は、歴史的価値が高いだけでなく、美しい建築と庭園が魅力の観光スポットとしても人気です。毎年、多くの参拝者や観光客が訪れ、文化財としての保存・保護も進められています。

年中行事と参拝

甲斐善光寺では、様々な年中行事が行われています。特に春と秋の例大祭には多くの参拝者が訪れ、寺の歴史と文化に触れることができます。また、境内には季節ごとに美しい花が咲き、訪れる人々を楽しませています。

春の桜と秋の紅葉

甲斐善光寺の境内は、春には桜が咲き誇り、秋には紅葉が美しい風景を演出します。これらの景観は、訪れる人々に四季折々の日本の自然美を堪能させてくれる魅力の一つです。

まとめ

甲斐善光寺は、武田信玄によって創建された歴史ある寺院であり、信仰の場としてだけでなく、観光名所としても広く知られています。歴史的な価値と美しい景観、重要文化財に指定された建物や寺宝は、訪れる人々に深い感銘を与えます。甲府市を訪れる際には、ぜひ甲斐善光寺に足を運び、その歴史と文化を感じてみてください。

Information

名称
甲斐善光寺
(かいぜんこうじ)

甲府

山梨県