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酒折宮

(さかおりのみや)

酒折宮(さかおりのみや・さかおりみや)は、山梨県甲府市酒折にある神社で、古事記や日本書紀に記されたヤマトタケル(日本武尊)の東征の際の行宮として知られています。連歌発祥の地ともされ、文学や歴史の愛好者が訪れる場所として有名です。山梨県内で、古事記や日本書紀に登場する神社はこの酒折宮だけです。

祭神

この神社の主祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)です。神話上の英雄として名高い日本武尊は、ヤマトタケルとしても知られ、多くの伝説を持つ人物です。

歴史

記紀に伝わる酒折宮の起源

『古事記』と『日本書紀』にヤマトタケルの東征が記されています。伝説によれば、ヤマトタケルは東国を征討する際に現在の山梨県の酒折に行宮(仮の宮)を設け、ここで滞在しました。記紀によると、ヤマトタケルはこの場所で塩海足尼(しおみたるのすくね)に出会い、甲斐国の統治を任せるため、火打袋を授けて「ここに鎮座しよう」と宣言したとされています。

東征の道筋

『古事記』では、ヤマトタケルが尾張から出発し、相模や上総を経て東北地方の蝦夷に至り、帰路に甲斐国酒折宮に立ち寄ったと記されています。一方『日本書紀』では、帰路に日高見国や常陸を経由し、酒折宮に立ち寄り、その後武蔵から信濃へと進んだとされ、これにより酒折宮が古代交通の要所に位置していたことがわかります。

連歌発祥の地としての伝承

酒折宮は連歌発祥の地としても知られています。ヤマトタケルが滞在中、ある夜に「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と歌いかけると、家臣たちは答えられませんでした。しかし、一人の焚き火番が「日々(かが)並(なべ)て 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」と答え、ヤマトタケルはその機知に感嘆しました。このやり取りが、後世に連歌の発祥として伝えられることになり、多くの学者や文学者が訪れるようになりました。

概史と社殿の変遷

御室山(月見山)と酒折宮

当初、酒折宮は御室山(月見山または酒折山)中腹に鎮座していたと伝えられていますが、後に現在の位置に遷座しました。御室山には多くの古墳や遺跡が点在しており、この地が古代から信仰の対象であったことを示しています。

歴史的背景と記録

文献には、武田氏滅亡後に酒折宮の社領が織田氏によって取り上げられ、神官が困窮した様子が記されています。江戸時代になると『甲斐国志』などにより現在の酒折宮が記紀に記される「酒折宮」に比定され、連歌発祥の地として注目を集めるようになりました。また、俳人大淀三千風など、多くの文人が訪れる場所となりました。

伝承の解釈と考古学的背景

ヤマトタケル伝承と古代甲斐の政治的役割

酒折宮のヤマトタケル伝承は、古代甲斐国が畿内政権とどのように関わってきたかを示す重要な証拠とされています。4世紀後半には甲斐国が畿内の影響下にあったと考えられ、酒折宮は東国平定の拠点として機能していた可能性があります。

考古学的研究

甲府盆地南端の曽根丘陵には、東海地方や畿内の影響を受けた古墳が存在し、甲斐国が畿内の文化的影響を強く受けていたことが示されています。5世紀には馬具を伴う古墳も築かれ、酒折宮は畿内政権の支配下で重要な役割を果たしていたと考えられます。

酒折宮の現代の意義と保存活動

文化財としての酒折宮

酒折宮は、現在も古代からの伝承を受け継ぐ場所として、観光客や歴史愛好者に人気があります。また、地域の文化財としても重要視され、保存活動が行われています。

今後の展望

地域の歴史や文化を伝える観光地として、酒折宮は今後も多くの人々に親しまれる場所であり続けるでしょう。また、酒折宮の伝承や歴史的背景を研究することで、日本の古代史や文化の理解を深める一助となることが期待されています。

酒折宮の概要

山梨県甲府市酒折に位置する酒折宮(さかおりみや・さかおりのみや)は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の伝承に基づく神社として有名です。古事記や日本書紀に登場する神社で、村社の格を持ち、山梨県内でも由緒のある歴史的な神社です。また、酒折夜雨は甲斐八景の一つとしても知られています。

起源と伝承

酒折宮は、日本武尊の東征において行宮(あんぐう、臨時の宿泊所)として建てられたとされ、その伝説をもとに連歌発祥の地としても位置づけられています。この神社が古事記・日本書紀に記述されていることから、山梨県内でも特別な歴史的意義を持っています。

酒折宮の祭神

日本武尊が祭神として祀られています。彼の東征の際に、ここに行宮が設けられ、地元の塩海足尼が火打袋を奉じて祀り、甲斐国造に任命されたという伝承が残っています。

酒折宮とヤマトタケルの伝承

ヤマトタケルの東征と行宮

『古事記』と『日本書紀』には、日本武尊が東国を平定する過程で酒折の地に滞在し、行宮を営んだとされています。古事記によると、帰路に甲斐国酒折宮に立ち寄り、そこで塩海足尼を甲斐国造に任命したと記述されています。一方、日本書紀では、帰り道に日高見国から常陸を経て酒折宮に立ち寄ったとされています。

連歌発祥の伝承

酒折宮は連歌発祥の地としても知られています。滞在中の夜、日本武尊が「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と詠みかけたところ、焚き火番の老人が「日々並べて 夜には九夜 日には十日を」と答え、尊がその機知に感嘆したと伝えられています。この逸話が後世に連歌の起源として位置づけられ、多くの学者や文学者が訪れる地となりました。

酒折宮の歴史的背景と遺跡

古代の信仰と遺跡

酒折宮は、御室山(月見山)にかつて鎮座していたとされ、多くの古墳や遺跡が残されています。酒折宮が現在の場所に遷座する以前は、御室山中腹にあったと伝えられ、古代より信仰の対象として崇敬を受けてきたことがうかがわれます。

江戸時代の酒折宮

江戸時代には『甲斐国志』などで酒折宮が記紀の酒折宮に比定され、連歌発祥の地としても評価されるようになりました。多くの文人が訪れ、俳人の大淀三千風や画家の土佐光起、歌川広重なども作品に酒折宮を取り上げています。

酒折宮伝承と考古学的考察

甲斐の黒駒伝承との関連

酒折宮の伝承は、甲斐の黒駒伝承と並び、古代の甲斐と畿内政権との関わりを示す重要なものと考えられています。考古学的には、甲府盆地南端の曽根丘陵には、古代から東海地方や畿内の影響を受けた遺跡があり、酒折宮伝承もこうした背景の中で考察されています。

磯貝正義と原秀三郎の研究

磯貝正義は、甲斐の銚子塚古墳の築造や黒駒伝承が、古代の甲斐が畿内政権に服従していく過程を反映していると指摘しています。また、原秀三郎は、酒折宮伝承の地を甲府盆地北部から曽根丘陵にかけて広域に比定し、これらの伝承が物部氏の進出を反映したものであると考えています。

酒折宮と物部氏

酒折宮の伝承には物部氏の影響も指摘されており、物部氏が遠江国を拠点として甲斐や下総に進出していったことが背景にあるとされています。こうした歴史的背景の中で、酒折宮がどのように畿内政権と結びついていたかが研究の対象となっています。

現在の酒折宮とその見どころ

御神体と連歌の石碑

現在の酒折宮には、伝承に基づき火打袋が御神体として祀られています。また、連歌発祥の地として詠まれた歌を刻んだ石碑もあり、訪れる人々がその歴史を偲ぶことができます。

アクセスと周辺観光

酒折宮は甲府市内にあり、アクセスが容易です。周辺には甲府市内の観光名所も多く、訪れた際には、甲府盆地の歴史や文化に触れることができるスポットとしておすすめです。

酒折宮のイベントと文化的意義

酒折宮は、連歌の発祥地としての文化的な意義を持ち、文学愛好家や歴史研究者にとって貴重な訪問地です。また、甲斐八景の一つである酒折夜雨も有名で、風情ある情景を楽しむことができます。

Information

名称
酒折宮
(さかおりのみや)

甲府

山梨県