天沢寺は、山梨県甲斐市亀沢に所在する曹洞宗の寺院で、山号を「巨鼇山(きょこうさん)」とし、本尊に釈迦如来を祀っています。「天澤寺」とも表記されることがあり、古くから地域の信仰の中心として親しまれてきました。
天沢寺は、甲府盆地の北端に位置する甲斐市亀沢にあります。寺院は、荒川支流の亀沢川の左岸に位置し、一帯は中世には龜澤鄕、近世には巨摩郡龜澤村、さらに中巨摩郡睦澤村大字龜澤と呼ばれていました。
『甲斐国志』『甲斐国社記・寺記』によれば、天沢寺は室町時代の文明4年(1472年)に鷹岳宗俊によって草庵が結ばれたことに始まります。その後、文明7年(1475年)に亀沢領主で武田家の家臣であった飯富虎昌が鷹岳宗俊を招き、寺院として開山し、「天沢寺」と号しました。宗俊は郡内地方で他にも寺院を創建しており、都留市の用津院などがその例です。
勝頼の時代には、譜代家老である山県昌満によって天沢寺が再興されました。武田氏が滅亡した後も、天正11年(1583年)に甲斐を領有した徳川氏によって寺領が安堵され、寺の存続が保障されました。また、寺には慶長8年(1603年)の平岩親吉禁制写や正保4年(1647年)の平岩良辰禁制写が伝わっており、これらは当時の重要な文書として大切に保管されています。
天沢寺の山門前には六地蔵幢と呼ばれる高さ234センチメートルの石塔が安置されています。この六地蔵幢は応永33年(1426年)に妙性によって造立されたもので、当時の地蔵信仰の遺構として非常に貴重であり、昭和46年(1971年)に山梨県の指定文化財に指定されました。
現在の天沢寺山門は宝暦3年(1753年)頃に建立されたもので、入母屋、瓦棒葺、三間一戸、八脚楼門形式の壮大な建築です。上層には三十三観音像、下層には摩利支天像と愛染明王像が安置されており、江戸時代後期の楼門建築として貴重な遺構です。平成18年(2006年)に甲斐市の指定有形文化財に指定され、平成30年(2018年)には山梨県指定文化財にも指定されています。
山門内部には木造摩利支天像と愛染明王像が安置されており、両像は明和4年(1767年)に製作されたもので、それぞれ像高170センチメートル、ひのきの寄木造りで作られています。両像は昭和59年(1984年)に甲斐市指定有形文化財に指定されており、全身が厚い胡粉地で覆われ、唐草文などの美しい文様が彩色されています。
天沢寺は飯富家の菩提寺としても知られています。飯富兵部少輔虎昌は、源義家の子孫とされ、当初は国人領主として一定の領地を支配していましたが、享禄4年(1531年)に武田信虎に敗れてからは武田家の家臣となりました。その後、武田晴信(信玄)の信任を得て重臣となり、信玄の嫡男である武田義信の傅役を務めましたが、永禄8年(1565年)に義信の反乱に連座し、やむなく自害しました。
天沢寺には、飯富虎昌の弟もしくは甥とされる山県昌景の墓碑があり、長篠の戦いで討死した彼の遺体が祀られています。昌景は信玄に早くから仕え、武田家四天王の一人として数々の戦に従軍しました。信玄の死後、遺言により勝頼を補佐する役目を担い、天正3年(1575年)の長篠の戦いで壮絶な最期を遂げました。
天沢寺の本堂には山県昌満の位牌が安置されています。昌満は昌景の子であり、長篠の戦いで昌景が討死した後、山県家を継ぎました。昌満は駿河田中城(現在の静岡県藤枝市)に城代として任じられましたが、天正10年(1582年)の武田領侵攻により捕縛され、処刑されました。
天沢寺は、観光名所としても多くの人々が訪れます。境内には四季折々の花々が咲き、静寂な雰囲気が広がる中で歴史を感じながらの散策が楽しめます。また、六地蔵幢や山門、摩利支天像・愛染明王像など、数多くの文化財を間近で見ることができるため、歴史好きには特におすすめです。
天沢寺の所在地は山梨県甲斐市亀沢2609で、車でのアクセスが便利です。最寄りの駅からは少し距離がありますが、近隣の観光スポットと合わせて訪れることで充実した観光を楽しむことができます。