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円楽寺

(えんらくじ)

円楽寺は、山梨県甲府市右左口町に位置する真言宗智山派の寺院で、山号は七覚山です。本尊は薬師如来であり、かつては五社権現の別当寺でした。長い歴史を持ち、甲斐国と駿河国を結ぶ街道沿いの要地として、多くの歴史的出来事と関わりを持っています。

円楽寺の概要

円楽寺は甲府盆地南端に位置し、南側には七覚川が流れ、御坂山地の北麓に建つ寺院です。この地域は古来より修験道の中心地で、中世から近世にかけて修験道の拠点として発展しました。さらに六角堂跡や行者堂跡なども寺の背後にあり、歴史的・文化的価値が高い場所です。

円楽寺の沿革

創建と再興

円楽寺は『甲斐国社記・寺記』によれば、大宝元年(701年)に役行者によって創建されたと伝えられています。また、神亀元年(724年)に行基によって再興され、桓武天皇の時代には国家鎮護の祈祷道場となりました。さらに『日本霊異記』では、役行者が文武天皇3年(699年)に流罪となり、その後修行の旅を経て富士北麓の行者堂へと向かい、富士登山道を開いたとされています。

南北朝時代と戦国時代

南北朝時代には、正平6年(1351年)に円楽寺付近で戦が起こり、甲斐守護の武田政義の弟である貞政が北朝方の小笠原政長に敗れました。また、室町時代後期の文明19年(1487年)には、聖護院門跡の道興が円楽寺に滞在し、多くの僧や山伏が集う霊地であったと記録されています。戦国時代には、今川氏の侵攻で焼失したものの、後に武田信玄や徳川氏から寺領安堵を受けました。

江戸時代から近代

江戸時代には、真言宗醍醐寺報恩院の末寺として、真言宗壇林7か寺のひとつに数えられ、修験道の拠点となりました。六角堂は六十六部廻国納経の納経所として利用され、多くの行者が訪れました。明治11年(1878年)には火災で本堂が焼失し、大正6年(1917年)に再建されました。

近年の調査

2005年から2006年にかけて、山梨県の中世寺院分布調査の一環として六角堂跡の発掘調査が行われ、歴史的な価値が再認識されています。また、円楽寺は歌人・山崎方代の菩提寺でもあり、彼の命日である8月19日には「方代忌」が催されています。

円楽寺の奉納経筒

中世には寺社へ経典を奉納する風習があり、円楽寺にはその代表的なものとして六十六部聖の奉納した小形経筒が所蔵されています。この経筒は全国でも珍しいもので、1571年に六角堂へ奉納されたとされます。銅板製鍍金で高さ14.3センチメートル、内部には泥塔が納められています。内部の泥塔には梵字が刻まれ、歴史的な価値が高いものです。

円楽寺の文化財

木造役行者及び二鬼像

円楽寺には山梨県指定有形文化財である木造役行者及び二鬼像(3躯)が所蔵されています。この像は平安時代から鎌倉時代にかけて製作されたもので、役行者像は像高116.5センチメートル、前鬼像と後鬼像の像高はそれぞれ66.1センチメートルと73.1センチメートルです。役行者像の胎内には、延慶2年(1309年)の修理銘があり、元々は富士山二合目の役行者堂に安置されていたものとされています。

役行者母子像と童子形立像

円楽寺には鎌倉時代に制作された伝役行者母子像と童子形立像も伝えられています。役行者母子像は像高83.5センチメートルで、『甲斐国志』に「老母ノ像」として記録されており、役行者の母としての伝承が残っています。母子像は後世に補修された形跡があり、当初の像容については不明な点が残りますが、母子像として伝承されています。

円楽寺と地域の関連

甲斐国志による記述

『甲斐国志』によれば、円楽寺は富士山二合目に役行者堂を持ち、山伏による信仰の拠点となっていました。寺では登山者に対して金剛杖を施与し、修法を行ったとされています。また、行者堂は甲斐における六十六部廻国納経の納経所のひとつとして、関銭を徴収し、富士山登拝者への支援を行っていました。

山崎方代との関係

右左口町出身の歌人・山崎方代の菩提寺でもある円楽寺は、地域の文化とも深い関わりを持っています。毎年8月19日には「方代忌」が行われ、彼の命日を偲ぶ行事が催されます。

まとめ

円楽寺は、甲府市右左口町の歴史と文化を象徴する寺院で、役行者や修験道の歴史に関連する貴重な文化財や遺跡が数多く残されています。甲斐国と駿河国を結ぶ街道の沿道に位置するこの寺院は、甲斐の修験道の拠点として中世から多くの歴史的出来事と関わりを持ってきました。現在も山崎方代の菩提寺として地域住民に親しまれており、訪れる人々にとって貴重な歴史と文化を感じられる場所となっています。

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名称
円楽寺
(えんらくじ)

甲府

山梨県