大福寺は、山梨県中央市大鳥居に位置する真言宗智山派の寺院です。山号は「飯室山」、院号は「正智院」、本尊は不動明王であり、甲斐百八霊場の第49番札所として信仰を集めています。
大福寺がある中央市大鳥居は、甲府盆地の南部に位置し、西流する笛吹川の左岸にあります。この地域は弥生時代から古墳時代にかけて多くの遺跡や古墳が発見されている、歴史の深い場所です。周辺には5世紀後半に築造された王塚古墳もあり、古くから人々が定住していた地域とされています。
この地域は中世には「浅利郷」と呼ばれ、近世には「上大鳥居村」として知られていました。平安時代後期の1130年には、源義清・清光(逸見清光)親子が常陸国から甲斐国に移住し、その子孫が甲斐源氏としてこの地で発展していきました。特に、浅利義遠(義成、与一)は浅利郷を本拠地とし、大福寺の周辺には義遠の墓所も残っています。
大福寺の創建は奈良時代の天平年間と伝えられており、当初は甲府市右左口にある円楽寺の末寺とされていました。平安時代後期に一条忠頼の子孫である「飯室禅師光厳」によって再興され、さらに鎌倉時代には浅利義遠によって伽藍の再建と寺領の寄進が行われたと伝えられています。
大福寺は天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐により兵火で伽藍を焼失しました。しかし、江戸時代になって伽藍が再建され、再び地域の人々の信仰の中心となりました。
大福寺には、平安時代後期に作られた「多聞天立像」が所蔵されています。像高は100センチメートルで、一木造りの彩色・彫眼仕上げ。甲冑をまとい、右手に宝棒、左手に宝塔を捧げた姿が特徴です。背中には蓋板があり、堂々とした風格を持っています。この像は観音堂の観音菩薩像や不動明王像とともに一具である可能性が示唆されています。
大福寺の観音堂には、像高3.6メートルに及ぶ「観音菩薩像」が安置されています。この像は平安時代後期に制作されたもので、木造寄木造りの彫眼で仕上げられ、現在では山梨県の指定文化財となっています。また、この観音像は「飯室観音」としても知られ、甲斐国三十三観音霊場の11番札所本尊として広く信仰されています。
大福寺の境内には、本堂をはじめ、観音堂(飯室観音堂)、薬師堂、鐘楼堂などの伽藍が整然と並んでいます。1903年に出版された『日本寺社名鑑 甲斐国之部』には、「飯室山大福寺之景」として当時の伽藍の様子が描かれています。
大福寺へは、JR東海の身延線「小井川駅」から徒歩でアクセスすることができます。