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慈照寺(西山禅林)

(じしょうじ)

慈照寺は、山梨県甲斐市に所在する曹洞宗の寺院で、山号は有富山、本尊は釈迦如来です。別名を「西山禅林」または「西山慈照寺」とも呼ばれ、古くから地域に根付いた歴史あるお寺です。

立地と歴史的背景

甲斐市竜王の地理

慈照寺が所在する甲斐市竜王は、甲府盆地の中央部に位置し、赤坂台地の南面にあります。ここからは富士山を望むことができ、その景観が山号「有富山」の由来とされています。また、赤坂台には古墳時代の遺跡である赤坂台古墳群が点在し、歴史的にも興味深い地域です。

篠原荘と西山郷

中世にはこの地域を中心に篠原荘が存在し、慈照寺周辺には「西山郷」や「輿石郷」といった地名も確認されています。これらの地名は歴史的な村落や荘園に由来し、現在の地名にもその名残が見られます。

寺史と創建

慈照寺の成立

慈照寺の創建年代は正確には不明ですが、伝承によると室町時代の延徳元年(1489年)に創建されたとされています。当初は真言宗の「法城寺」として創建され、後に曹洞宗に改宗されました。延徳元年には真翁宗見が入山し、曹洞宗寺院に再建したとされています。

真翁宗見と諸角昌清の関わり

『寺記』や由緒書には、慈照寺の開祖として真翁宗見や諸角昌清(豊後守)といった人物の名前が記されています。諸角昌清は甲斐武田氏の家臣で、戦国時代の甲州において慈照寺の創建と発展に深く関わったと伝えられています。

梵鐘と志麻荘

慈照寺には正保4年(1647年)鋳造の梵鐘が伝わっています。この鐘の銘文には「甲州巨摩郡志麻荘西山郷龍王村」と記されており、志麻荘(志摩荘)は12世紀後半まで松尾社領として成立した荘園でした。この銘文から、慈照寺が地域の歴史的な荘園に属していたことがわかります。

近世初頭における慈照寺の歴史

武田氏滅亡と寺の保護

天正10年(1582年)、織田信長と徳川家康の連合軍により武田氏が滅亡しましたが、その後、慈照寺は織田氏により特権が保障されました。本能寺の変により信長が亡くなった後、甲斐国は「天正壬午の乱」を経て徳川家康が領有し、以降は徳川氏によって庇護されました。

徳川家康による寺領の安堵

天正11年(1583年)、徳川家康による慈照寺寺領の安堵が確認されています。また、徳川氏は武田氏の施政方針を継承し、門前百姓の棟別役免除を行うなど、寺院とその周辺の住民に対する配慮も行っていました。

江戸時代における慈照寺

寺領の確定と朱印状

徳川家康が再び甲斐を領するようになると、江戸幕府による寺領の確定が行われました。最終的には寺領石高8石余、境内免除地1523坪が決定され、歴代将軍の朱印状11点が慈照寺に保管されていました。

中興祖師・量岫長応の功績

江戸時代には十世・量岫長応が中興祖師として数えられ、法堂や山門の再建、過去帳の整備などの事業を行いました。量岫長応の功績は十一世・界翁関刹、十二世・徳翁長喜にも継承され、寺の発展が続けられました。

近代・現代における慈照寺

明治時代の変革

明治時代に入り、新政府は神仏分離令を発し、廃仏毀釈運動が全国的に展開されましたが、慈照寺にはそれほど大きな影響はありませんでした。寺院の統合・檀家の吸収などが行われたものの、慈照寺は地域にしっかりと根を張って存続しました。

中央線開通と境内の変化

明治36年(1903年)、中央線の開通により、慈照寺の参道が分断されるという影響がありました。竜王駅が開業し、周辺地域の交通が発展する一方で、寺の景観には一部変化が見られることとなりました。

境内の構造と見どころ

法堂と庭園

境内には法堂を中心に、山門、庫院、開山堂などが建ち並び、その裏手には美しい枯山水式の庭園があります。この庭園は元文5年(1740年)、尾張の庭師・須頭元二により造成され、現在もその風情を楽しむことができます。

釈迦三尊像

慈照寺の本尊である釈迦三尊像は、室町時代の院派仏師による作品で、宝冠釈迦如来像を中心に、文殊菩薩と普賢菩薩を脇侍として配した貴重な仏像です。県内でも類例の少ない重要な作例とされ、訪れる人々に信仰と歴史の深さを感じさせます。

まとめ

慈照寺は、戦国時代から江戸時代、そして近代に至るまで、地域の歴史とともに歩んできた寺院です。地元の歴史的背景と深いつながりを持ち、曹洞宗の伝統を今に伝えています。豊かな自然と美しい庭園、そして室町時代の貴重な仏像が訪れる人々を迎え、地域の文化と歴史を学ぶ貴重な場となっています。

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名称
慈照寺(西山禅林)
(じしょうじ)

甲府

山梨県