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穴切大神社

(あなぎり だいじんじゃ)

穴切大神社は、山梨県甲府市宝二丁目に鎮座する神社です。甲府盆地の湖水伝説と蹴裂伝説を由緒に持ち、旧社格は郷社です。

概要

穴切大神社の鎮座地は甲府市の西端、相川の左岸に位置しています。祭神として、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなびこなのみこと)、素戔鳴命(すさのおのみこと)の3柱を祀っています。かつては「穴切明神」とも呼ばれており、湖水伝説との関係から初期の祭神は穴切明神や蹴裂明神とされる説もあります。

由緒

黒戸奈神社としての歴史

『甲斐国社記・寺記』(以下『社記』)によると、穴切大神社は当初「黒戸奈神社」と称し、朝廷から「穴切大明神」の神号を授けられました。『延喜式神名帳』に記載の式内社「山梨郡黒戸奈神社」として位置づけられています。『甲斐国志』でも黒戸奈神社説を紹介しており、鎮座地は当時の巨摩郡に属していたと見られます。

甲斐国湖水伝説と蹴裂伝説

『社記』と『国志』は、かつて甲府盆地が湖であったこと、甲斐国司が湖を平地化するために祈願し、大国主神(大己貴命)に祈りを捧げたと記録しています。この祈願により鰍沢口を開削し、富士川へ湖水を流し出し、甲府盆地一帯を水田化する大事業を達成しました。この偉業に対する感謝として、大己貴命を勧請し、穴切大神社が創祀されたと伝えられています。

湖水伝説の異説

一方、『国志』では盆地の湖水を流した神が3柱いたとし、それぞれが異なる方法で山を開き水を流したと伝えています。この3柱の神を蹴裂明神、穴切明神、瀬立不動と称え、穴切大神社は2番目の神を祀っているとされます。この説から、穴切大神社の名称も由来していると考えられます。

地質学的背景と歴史

山梨県各地には、かつて甲府盆地が湖であったとする伝説が残っており、実際に地質学的にも甲府盆地は駿河湾から水が入り込んでいたとされています。このため、弥生・古墳時代から開拓が進められてきた地域であったと考えられています。

縄文土器の出土と創祀の起源

穴切大神社の周辺からは縄文土器が出土しており、古くから鎮祭されていたことが伺えます。本殿背後にある立石も神社創祀に関連付けられると考えられています。

近世から近代までの歴史

徳川幕府時代の慶長8年(1603年)の記録では、穴切大神社に黒印社領5石7斗余が安堵され、江戸時代を通じてこの社領は維持されました。また、甲府城下町の南西に位置することから、武家からの崇敬を受けていました。

明治以降の歴史と神社の変遷

明治5年(1872年)に郷社に列されましたが、翌年の改革で神主職が廃止されたため、古記録が一部失われました。例祭は4月19日に行われ、近世には正木家が神主職を世襲していたと伝えられています。

社殿

本殿

本殿は一間社流造で、桃山時代に再建されたものとされています。彩色豊かな装飾や禅宗様の技法を用いた木鼻など、桃山時代の建築様式が特徴的です。屋根は檜皮葺で、正面軒のデザインにも独自の反りが見られます。

歴史的価値と重要文化財

昭和10年(1935年)に当時の国宝保存法に基づく国宝に指定され、その後、重要文化財となりました。棟札も昭和37年に附(つけたり)指定として追加されました。

拝殿

拝殿は鉄筋コンクリート製で、かつての拝殿は正徳5年(1715年)に建造されたものでしたが、新府の藤武神社へ寄進されました。

随神門

随神門(ずいじんもん)は1794年に建てられた2層の楼門で、彫刻は立川流初代の和四郎富棟の手によるもので、江戸時代後期の楼門建築として価値が高く、甲府市の文化財に指定されています。

神楽殿

神楽殿は向唐破風造で、外部に張り出す屋根の両翼部は後年に造築されたものと考えられています。

文化財としての価値

穴切大神社は、その独自の建築様式と歴史的な背景から、日本の文化財としての価値が非常に高く評価されています。古代から現代まで、多くの人々の信仰を集め、甲府市において重要な文化財の一つとなっています。

まとめ

穴切大神社は、甲府盆地の歴史と文化を象徴する神社であり、湖水伝説や蹴裂伝説といった古い伝承を背景に持つ神社です。その社殿や門には桃山時代の様式が色濃く残り、歴史的な価値が高い建築物として保存されています。

Information

名称
穴切大神社
(あなぎり だいじんじゃ)

甲府

山梨県