義光山矢の堂は、日本の山梨県北杜市小淵沢町尾根に位置する堂宇で、歴史的・文化的な価値が高い施設です。堂内には本尊である観世音菩薩が祀られており、毎年5月に「大般若経転読会」という重要な行事が行われています。また、堂の建物や宝篋印塔、太鼓が市指定の有形文化財として指定されています。
義光山矢の堂の創建は、新羅三郎義光が空海上人によって彫られた聖観世音菩薩像(矢の観音)を大津の三井寺から勧請し、小淵沢村に堂を建立したことに始まると伝えられています。その後、義光の孫である黒源太清光が、小淵山天沢寺をこの堂の別当としました。これは、仁安年間(1166年-1168年)のことであり、昌久寺の由緒書にも記されています。
武田信玄もこの矢の堂を崇拝し、その加護により「大門峠の合戦」に勝利したとされます。この勝利を記念して、信玄は八ヶ岳の中腹にある「堂平」に観音像を移し、「観音平」と称しました。武田氏の滅亡後、「観音平」は荒廃しましたが、村民たちは信仰心から天沢寺に再び移祀し、さらに天沢寺が廃寺となったため昌久寺に仮安置されました。
現在の義光山矢の堂は1781年(安永10年)に再建されました。その後、1820年(文政3年)から大般若経600巻を勧進し、大般若経の転読会を行う伝統が続けられています。また、矢の堂は1968年(昭和43年)に市の文化財として指定され、保護されています。
本堂は、間口4間、奥行き5間の萱葺き造りで、堂内には雲渓、桃光、雲垈による美しい花天井が施されています。本堂自体が1781年に再建され、歴史的価値が高いとされています。
経蔵は間口2間・奥行き2間の萱葺き蒸籠造りで、大般若経600巻が納められており、年に一度の転読会で使用されます。
宝篋印塔は、2000年(平成12年)に文化財として登録されました。この塔は1813年(文化10年)に高遠の石工である池上平右衛門周幸によって制作され、安山岩製で高さ370センチメートルあります。塔には四方仏や十六羅漢の像が彫られ、精巧な彫刻が施されています。
矢の堂太鼓は1850年(嘉永3年)に作られたもので、こちらも文化財に指定されています。太鼓の胴体内部に製作年が刻まれており、地域の祭りや行事で使用されています。
矢の堂祭りは、1820年(文政12年)から毎年2月の二の午の日に行われてきた伝統的な祭りで、現在は毎年5月3日に開催されます。かつては地域の農家や村人が参拝し、五穀豊穣や家内安全、馬の健康を祈願しました。祭りでは大般若経600巻を転読する祈祷が行われ、絵馬とお札が配られます。
矢の観音像の「大開扉」の儀式は、61年に一度の貴重な行事でしたが、近年は毎年行われるようになりました。この行事では矢の堂の信仰が再確認され、地域住民によって受け継がれています。
昭和期以降、矢の堂奉賛会が矢の堂の管理と祭事を行っています。1996年の葺き替え作業から20年以上が経過し、近年では屋根や構造材の劣化が進んでいます。奉賛会では地元住民からの寄付や北杜市からの補助金をもとに修復活動を進め、2020年(令和2年)には茅葺き屋根の葺き替えを行いました。
矢の堂の境内には、馬頭観音、念仏供養塔、青面金剛庚申塔など、計53体の石造物があり、地域住民の信仰が息づいています。昭和初期には矢の堂の側に絵馬堂があり、多くの絵馬が奉納されていましたが、20世紀半ばには堂宇とともに失われました。
本堂の天井には、花天井と呼ばれる美しい装飾が施されています。この装飾には、雲渓、桃光、雲垈による絵が描かれ、訪れる人々の目を楽しませています。
義光山矢の堂は、山梨県北杜市小淵沢町小字尾根2139にあり、大宮神社の隣に位置しています。また、尾根集落広場として整備された地域内にあり、周囲には観光施設も整備されています。
義光山矢の堂は、長い歴史と深い信仰に支えられ、地域の文化財として保護されている貴重な遺産です。矢の堂奉賛会の活動や修復作業により、現代においてもその姿を保ち続け、次世代へと伝えられています。訪れる人々にとっては歴史的な学びの場であるとともに、地域の伝統と信仰の拠り所でもあります。