熱那神社は山梨県北杜市高根町村山西割に位置する、歴史ある神社です。旧郷社で、地元の氏子から「八幡さん」とも呼ばれるこの神社は、長い歴史と共に山梨県内で親しまれ、信仰を集めてきました。
正式名称は「神部神社」や「熱那惣社八幡社(あつなそうしゃはちまんしゃ)」とも呼ばれ、古くから地元で信仰されてきました。境内にはアカマツやスギ、ヒノキなどが生い茂り、「八幡森」として知られています。
熱那神社はかつて、村山東割、村山西割、村山北割、小池、蔵原、箕輪、同新町、堤、五町田の9つの村の総社として機能していました。1997年時点では、村山地域の3か村の総社となっています。
1985年時点での境内地は約2530坪、氏子戸数は560戸でしたが、2007年には320戸に減少しました。現在の宮司は山本千杉氏が務めています。
熱那神社の主祭神は以下の3柱です:
創建の正確な年代は不明ですが、もとは「今古宮」として村山東割の「熱那坂(安都那坂)」に祀られていました。現在の場所に遷宮された年代は定かではありません。
『甲斐国志』(文化11年)によると、平安時代の康平6年(1063年)、逸見荘の義清が宇佐八幡大神を勧請し、現在の熱那神社の基となる社が建立されました。
中世には9か村の総社として、甲斐源氏の信仰を集めていました。甲斐源氏は神領の寄進や社殿の造営を行い、社殿が再建されるなどして地域における重要な信仰の場として発展しました。
天正11年(1582年)には徳川家康によって神領朱印状が奉納され、江戸時代には7石7斗の領地や広大な社地を有する神社として栄えました。江戸時代の文政2年(1819年)には社殿が再建され、信仰の場として再整備されました。
明治時代初頭、熱那神社は郷社に列せられ、その後神饌幣帛料供進神社に指定されました。境内には、町指定の天然記念物であるサクラや、指定有形文化財である本殿と算額があり、歴史的価値が高い神社です。
2004年、北杜市が発足したことにより、本殿・算額は市指定の有形文化財、サクラは市指定の天然記念物、太々神楽は市指定の無形民俗文化財となりました。
境内には本殿、幣殿、拝殿、神楽殿、渡殿、社務所、一の鳥居、二の鳥居、宝蔵庫など、多くの社殿と施設が並び、荘厳な雰囲気を醸し出しています。
熱那神社の境内には多くの境内社が祀られており、歴史的な信仰の広がりを感じさせます。1930年には琴平神社、愛宕社、稲荷神社などがあり、1993年時点でもこれらは引き続き祀られています。
境内には、地域の名士や歴史的出来事にまつわる石碑や奉納額が多数設置されています。特に勤皇殉難志士大芝宗十郎先生碑や、昭和18年に建立された「蕪庵五世宗匠植松田彦の句碑」などが見どころです。
1952年に設置されたこの碑は、熱那神社の社地の譲渡を記念しています。甲府市の武田神社宮司である乙黒清樹が碑文を担当しました。
拝殿内には多くの奉納額が掲げられています。地域の歴史と共に人々の想いが込められたもので、俳句や和歌、連句などが収められています。
1948年4月、戦没者の鎮魂を願って、原好義ら68人が奉納した俳句額が飾られています。高さ90センチ、幅330センチの大きな額で、多くの人々の想いが込められています。
1897年に川端下喜らによって奉納された和歌額は、地域の著名人によって詠まれた和歌が刻まれています。
熱那神社の境内には、幕末の出流山事件に参加した大芝宗十郎の勤皇殉難碑が建てられています。彼の尽力と犠牲を称えるこの碑は、地域の歴史と共に尊い志を後世に伝えています。
大芝宗十郎は1814年、村山西割に生まれ、名主として地域を治めていました。天保の大飢饉の際には、租税免除を訴えたが認められず、自らが罪を背負って隠遁生活に入りました。その後、尊王攘夷を唱えて志士となり、出流山事件に参加しました。
熱那神社は、平安時代から続く古社として、地域の歴史と共に歩んできました。神社の境内には歴史的な建物や文化財が数多く残り、訪れる人々に深い歴史と信仰の絆を感じさせます。地域の信仰を支えてきた熱那神社は、これからもその価値と魅力を未来へと伝えていくでしょう。