山梨県南アルプス市加賀美に位置する法善寺は、歴史的価値の高い寺院です。高野山真言宗に属し、加賀美山の山号を持つこの寺院は、阿弥陀如来を本尊とし、武田八幡宮の別当寺として知られています。
法善寺は、甲斐国の歴史書『甲斐国社記・寺記』および『甲斐国志』によると、806年(大同元年)に逸見(現・北杜市白州町)で創建された「永善寺」を前身としています。その後、南アルプス市の山寺村や寺部村に移され、822年(弘仁13年)には空海によって創建されたと伝えられています。
平安時代後期、甲斐源氏の一族が甲府盆地に土着し、法善寺は加賀美遠光によって再興されました。建久年間に現在の南アルプス市加賀美地域へ移り、武田八幡宮(韮崎市神山地区)の別当寺となりました。この地域には法善寺と同じく遠光が創建した寺社が多く存在します。
1208年(承元2年)、法善寺は加賀美遠光の孫・遠経によって遠光屋敷跡へ再興され、以降、甲斐守護である武田氏の庇護を受けました。1221年(承久3年)には、高野山から覚応を招き中興開山としました。
1568年(永禄11年)、武田信玄が越後侵攻を行った際、法善寺は信濃の慈眼寺や甲州市の法光寺と共に戦勝祈願を命じられ、翌年には祈願成就の賞として棟別銭が免除されました。信玄の要請で高野山から円性教雅(えんしょうきょうが)が住職として招かれ、武田信玄と親密な関係を築いたものの、後に関係が破綻したといわれています。
武田氏の滅亡後、法善寺は織田信長、徳川家康の庇護を受けることになります。1588年(天正16年)には徳川家康からの禁制を受け、翌年には徳川家臣・伊奈忠次による検地が行われました。また、江戸時代には将軍徳川家光の朱印地安堵を受け、盛期には末寺9、子院20を擁する大寺院として発展しました。
明治時代には神仏分離が実施され、武田八幡宮が法善寺から独立しました。さらに、法善寺は貴重な文化財を所蔵しており、多くのものが国や県の指定文化財として認定されています。
法善寺に所蔵される「紙本墨書大般若経」は、鎌倉時代に作られた大般若経の写経です。全600巻のうち561巻が現存しており、残り39巻は欠巻です。経文は黄染の楮紙に墨書され、折本装の形式を採っています。この経典は甲斐源氏の一族である一条信長を願主に奉納され、明治期には正式に法善寺に移管されました。
法善寺の鐘楼は、室町時代に建立されたと考えられる建築様式を持っていますが、正確な年代は不明です。県内でも大きな中世鐘で、建長年間に鋳造された可能性があるとされています。
法善寺に所蔵される銅鐘は、全高147.7cm、口径89.1cmの大きさで、中世鐘として県内で重要視されています。鐘身には傷が多く、他所から移された可能性も指摘されています。
この板絵は、縦139.0cm、横33.0cm、厚さ2.2cmの板に僧形八幡神を描いたもので、1461年(寛正2年)に武田八幡宮へ奉納されたと考えられています。
縦167.0cm、横124.7cmの絵画で、中央には釈迦如来が描かれ、その周囲を十六善神が囲んでいます。室町時代の作品とされ、金泥の彩色が施されています。
16巻にわたるこの経典は1539年に奉納されたもので、1562年に甲斐国に持ち込まれたと考えられています。江戸時代には訓点が施され、現在も法善寺で保存されています。
1290年(正応3年)に制作された銅製鏡で、中央には阿弥陀如来坐像が配置され、観音菩薩と勢至菩薩が両側に配されています。神仏分離の際に法善寺へ移管されました。
法善寺は、平安時代から続く古刹であり、武田氏の庇護を受けて発展してきました。また、多くの貴重な文化財が所蔵され、歴史的価値のある寺院として地域の文化に貢献しています。歴史や文化財に触れたい方には、法善寺の参拝は貴重な体験となることでしょう。